オウチダイスキ

起きたときから「帰りたい」って思うアレに悩まされてる

映画『きみはいい子』

2015年に公開された邦画『きみはいい子』が先日早稲田松竹にて上映していたので鑑賞した。

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それを、一言に。

 

ここ数年で一番長く泣いた!!!!座席で嗚咽をこらえるのに必死。

 

この映画は、5つの短編から成る原作小説から3つのお話を切り取って1本の映画としたものらしく、主たるストーリーが3つ存在しそのどれもが子どもを巡る物悲しい現実を語っていた。

家庭内暴力育児放棄自閉症…etc

映像を通して、大人に対して無力で為す術の無い子ども達の様々な姿が胸を苦しめる。しかし一番伝わってくるのは、かわいそうなのは子どもだけではないということ。

描かれていた大人たちは、育児を努力しているのに認められていなかったり、反省しているのに虐待を止められなかったり…自分は決して立派で尊敬できる人間ではないと自覚があるのにそのくせに周囲からは大人としての一人前の責任を求められる。背格好や身分ばかりが大人になったからといって心の底から大人になりきれている人などほとんどいないのかもしれない。

 

気分が暗い、下を向いていしまう、そんな状態で暮らしていると視界にもやがかかる。ほんとうは有るはずのものも見えなくなる。それが今回で言うところの人からの愛であって、特に家族という最も身近で大切な存在からの愛の影響力は他と比べられない。もらえない、もらっても気付けないことのなんと悲しきや!

 

人に抱きしめてもらう、この行為には科学的に云々と論じられない効果がきっとある。自分の小さい頃、親にどれだけ恐く厳しく叱られたとしてもその後に毎度膝に乗せてギュッと抱いてくれる時間があった。泣きすぎてしゃくり上げる私の頭をぽんぽんし、背中をなでて「わかったならいいんだよ、これでまた少しいい子になれたね」と慰めてくれた。あの時間があるから、やさしい手とあたたかい体温を覚えているから、いくら親が怒っても自分は決して嫌われてないと思えていた。私がお母さんを大好きなようにお母さんも私を大好きなんだ!と疑いもしなかった。身体のふれあいで通じる何かだ。安心感と幸福感と照れくささ...複雑で不思議ででも嫌じゃないきもち。

劇中で小学校教師の主人公は、とても辛いと感じていた時期に小さい甥から抱きしめられ励まされることで感極まってしまう。そして思いがけず、抱きしめることで生まれる感情の偉大さを教えられる。

 

自分の家庭にそういった家庭問題の経験があればもちろん響くかもしれないが、映画内の大多数の児童のように全く問題なく育ってきた人にとっても、十分深く訴えるものがある作品だと思う。いやむしろ知らないからこそ、その当たり前の大切さにやっと気付くことで心配と恥と感謝で涙がこみ上げてくるのかもしれない。

 

昔から幾度となくギュッと抱きしめてくれた母親。小学校高学年あたりからもうそんなことをしなくなって何年になるかもわからない。私の母への愛はしっかり届いているだろうか。感謝は伝わっているだろうか。今度会うときは照れに負けずに抱きしめてみようか。