オウチダイスキ

起きたときから「帰りたい」って思うアレに悩まされてる

「父の日」を誤魔化すため、小学生で嘘を始めた

今週のお題「おとうさん」

 

私は父親がいない。

もちろんDNA的な父は居たわけだけれど、ともかく小学校に上がる頃には共に生活をしていなかった。

それでも当時はまだ小さかったし、家の中にいるときだけは全く気にしてなかったのだが、小学校という環境は私に「父」の存在を何度も突きつけてきたことを強く覚えている。

 

授業中に当たり前に出される「父の日が近いから、お父さんへの作文を書きましょう」という指示

無邪気に「パパなんのお仕事してるの?」って聞いてきちゃう友達

 

最初は、私の家庭の当たり前が世間でも当たり前だと思っていたから「私の家は居ないんだ」って話してた。

でもそれを聞いた先生は「ごめんなさいね」って謝った。友達は「ふーん」って面白くなさそうだった。

何が悪かったのかはよく分からないけど、良い反応がもらえないことだけわかった。次第に言えなくなった。これは当たり前じゃないんだって徐々に学んだ。

 

適当な嘘をつくようになるまで時間はかからなかった。お父さんの嫌なところって話題で、ウンザリだよねって表情を作りながら同調するのもかなり上手くなった。

お父さんが厳しいと愚痴を聞いて、羨ましいとは思わないけど、やっぱり、知らない感覚は寂しかったな。

 

父がいない後ろめたさの、1番印象的な思い出がある。

中学の時、担任と共にクラスの数名で学祭の作業をしていた。当時40間近で独身男性だった担任は何の気も無しに(そうだと思いたいが)「〇〇(私)の家はお父さんが居ないから大変だもんな」と発した。

驚いた。

小学校での担任は父のいない私への配慮不足を謝っていたのに、中学の担任であるこの人は、生徒の前で父のいない私をかわいそうだとまで言ったのだ。

決して良い目では見られない家庭事情を他人の前で勝手に明らかにし、さらに比較的偏見の少ない中学生に「母子家庭=かわいそう」という観念を与えた。

もちろんそれを聞いた周りの友達は何も触れてはこなかった。なんとなくタブーを分かっているから。でもそれがまた、悲しかった。中学生でもわかるのに。なぜ担任が。

 

父の話題への嘘や誤魔化しは、その後より上手くなった。絶対に知られたくなくなった。

 

今では私もすっかりいい大人だから、家庭事情を正直に話すことも逆に嘘をつくこともなく、盛り下げずに父の日の話題についていける。社会も変わったし、そういうデリケートな部分は慎重に配慮され始めてるのも助けられてる。

 

父の日に恨みはない。

お父さんがいて、感謝を示すためのきっかけになる日が設けられてることは素晴らしいと思う。ずっとおこなわれてほしい。

ただ、この時期になると昔を思い出してもやもやとするだけの話。梅雨だね。

 

人生が楽しくて生きてる人って何割?

更新が久しぶりすぎて引きますが、文章をどうしても書きたくなったのは表題の通り。

今、私は日本の首都「東京」で就活を経験しています。とんでもない数の企業説明を聞き、実力以上に映えるような自己PRを磨き、選考に挑んでいます。

そこで一番思うこと。

社会人、自分がやりたくてやってる仕事に就いてるの?

大学までの過程で、高卒で社会人になった人はもう働いてたけど、大学生はみんなやりたい事しかやってなかった。スポーツしたり、朝まで飲んだり、授業もそこそこに合コンしてセックスしたり、そんな毎日のはずだった。

でも就活になると皆、自分のアピールポイントを学生生活の中から分析して、文章表現の対策・面接の対策したりなんかして、きらっきらと自分像を輝かせて語っている。長く側にいて、同じく過ごしてきた人物が、自ら強みを見出してまるで無敵のように就活に挑む姿、正直尊敬する。元から知らない面で頑張っていた人も多いし、就活に直面してから上手いことごまかしてる人も多い。私も同じように頑張っているが、人より要領が悪い分やはり劣っている。

自分はプライドが高い方だ。だから、有名大を親に無理させて通った以上就職では第三者から見てもそれなりの結果を出したかった。

ただ、人より「したいことしかしたくない」という思いが強いのだと、就活を通して学んだ。いくら自己分析しても、多種にわたる業界・企業分析しても、やはりこの思いに行き着いた。

世の中で働く全ての人、尊敬せざるを得ない。自分の職務を好む好まざるを別としても、就活して、飲み込んで、働いて実際に稼いでる様は学生の甘えとは異なる。

ひとまず自分は、フリーターになってでも希望職種にすがりつきたいというのが現在の想い。働きさえすれば死なないのだから。楽しく生きたい。それが生きる理由になる。

人生が楽しくて生きてる人ってどれくらいなのか。ね?

メンヘラ、はじめての病院

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半年に1回の更新ペースとなりました、やる気の無さが反映され過ぎている。

 

唐突ですが私は鬱症状が近年顕著に現れ始め、他虐・自虐共にメンヘラちゃん呼ばわりな状態です。
だからお家好きなのでしょうか。ベッドの上で寝ることが何より楽です。
なんと言うか、それが一番幸せ、という表現では決して無く、それが一番楽なのです。

とはいえ一番ひどかった昨年の症状(家から出れない、そもそも起き上がれない...etc)を経まして今年は幾分か調子の良い、アクティブな半年弱を楽しめておりました。

しかし先月から何故かガッツーーーーーーーンとフルスイング逆方向で鬱状態に戻ってしまい
登校出来ない...バイト行けない...単位が...生活費が...!!と。

 

病院に行くゾっ

健康で文化的な最低限度の生活を保たねば憲法違反となる国ですし
華の若者世代である自分を無駄にしないためにも、まあどうにかせねば、とね。
幸い去年より体感症状は軽く、気合を奮い立たせることができたので病院を探してみたりなんかしたんです。
ポイントなのは、家から近いこと。
これは本当に大事で、主たる症状が「家から出るのがつらい」ことなもんだから、遠出なんて考えただけで行けるわけがなくてね。
探すわけです、最寄り駅の、評判のいい心療内科
言ってもココは東京。病院なんて掃いて捨てるほどあるでしょ~~~と楽観視。

 

なめてました。エエ、なめくさってましたね。

最寄り駅にある心療内科系病院は2つ。1つの評判はボロクソ。もう1つは初診予約が2ヶ月待ち。

エ!こんな大変なものなの!?

 

 

どうやら精神系の病院においては、このように初診がしばらくとれないという現象が珍しくない(むしろ大体そう)らしい。今辛いのに2ヵ月後の初診なんて、問い合わせた患者が死んでても文句言えないでしょと思わずにいられないんだけどな。しょうがないから最寄り駅は諦め、比較的家から近い巨大駅に的を絞ることにしました。

 

現在

というわけで、半月前から某心療内科の漫画シリーズで知られている病院に通っています。(実在するんですね!)
ここ、毎日初診を受け付けてくれるんです!しかもタイミングよいと予約無しの初診も受け入れしてくれる。アア、きっと患者の切々たる訴えを反映してくれているんだな、素敵です。
現在は薬じゃなくカウンセリングの治療を進行してもらってますが、なんというか、ソッコー元気になりたいので投薬してくれないかなとか思っています。副作用とか一旦我慢するんで。早くどうにかしてほしい。早く元気になりたい。今年の夏を楽しみたい。

 

人間はやっぱり心身ともに健康が一番だよ!

映画『きみはいい子』

2015年に公開された邦画『きみはいい子』が先日早稲田松竹にて上映していたので鑑賞した。

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それを、一言に。

 

ここ数年で一番長く泣いた!!!!座席で嗚咽をこらえるのに必死。

 

この映画は、5つの短編から成る原作小説から3つのお話を切り取って1本の映画としたものらしく、主たるストーリーが3つ存在しそのどれもが子どもを巡る物悲しい現実を語っていた。

家庭内暴力育児放棄自閉症…etc

映像を通して、大人に対して無力で為す術の無い子ども達の様々な姿が胸を苦しめる。しかし一番伝わってくるのは、かわいそうなのは子どもだけではないということ。

描かれていた大人たちは、育児を努力しているのに認められていなかったり、反省しているのに虐待を止められなかったり…自分は決して立派で尊敬できる人間ではないと自覚があるのにそのくせに周囲からは大人としての一人前の責任を求められる。背格好や身分ばかりが大人になったからといって心の底から大人になりきれている人などほとんどいないのかもしれない。

 

気分が暗い、下を向いていしまう、そんな状態で暮らしていると視界にもやがかかる。ほんとうは有るはずのものも見えなくなる。それが今回で言うところの人からの愛であって、特に家族という最も身近で大切な存在からの愛の影響力は他と比べられない。もらえない、もらっても気付けないことのなんと悲しきや!

 

人に抱きしめてもらう、この行為には科学的に云々と論じられない効果がきっとある。自分の小さい頃、親にどれだけ恐く厳しく叱られたとしてもその後に毎度膝に乗せてギュッと抱いてくれる時間があった。泣きすぎてしゃくり上げる私の頭をぽんぽんし、背中をなでて「わかったならいいんだよ、これでまた少しいい子になれたね」と慰めてくれた。あの時間があるから、やさしい手とあたたかい体温を覚えているから、いくら親が怒っても自分は決して嫌われてないと思えていた。私がお母さんを大好きなようにお母さんも私を大好きなんだ!と疑いもしなかった。身体のふれあいで通じる何かだ。安心感と幸福感と照れくささ...複雑で不思議ででも嫌じゃないきもち。

劇中で小学校教師の主人公は、とても辛いと感じていた時期に小さい甥から抱きしめられ励まされることで感極まってしまう。そして思いがけず、抱きしめることで生まれる感情の偉大さを教えられる。

 

自分の家庭にそういった家庭問題の経験があればもちろん響くかもしれないが、映画内の大多数の児童のように全く問題なく育ってきた人にとっても、十分深く訴えるものがある作品だと思う。いやむしろ知らないからこそ、その当たり前の大切さにやっと気付くことで心配と恥と感謝で涙がこみ上げてくるのかもしれない。

 

昔から幾度となくギュッと抱きしめてくれた母親。小学校高学年あたりからもうそんなことをしなくなって何年になるかもわからない。私の母への愛はしっかり届いているだろうか。感謝は伝わっているだろうか。今度会うときは照れに負けずに抱きしめてみようか。

いま最も忌むべきもの、梅雨

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7月って梅雨終わりじゃないんですか?

 雨が嫌いだ、湿度が高いだけで嫌だ。ましてや梅雨なんて。

肌に何とも言えぬ気持ち悪いベールが張り付いてくるようなあの感じ、不快極まりない。

ワタシの愛する故郷、北海道では、梅雨なんてもの存在しなかった。 この時期になれば多少雨の機会は増えたかもしれないが、週間天気予報が雨と曇りで埋まってしまうなんて異常な絵面は基本的に見られなかった。 そもそも湿度が低い。夏の暑さはカラッとした日差しの、肌が焼けるような気持ちよい暑さだった。

ところが東京はどうだ。灼熱どころか蒸し風呂の気分だ。変にしっとりした空気が部屋や洗濯物を湿らせてゆくし、ご立派に気温までも北海道よりずいぶん高いせいで呼吸がしづらい。

最近毎朝外出が億劫だ。ベットで目を覚ました瞬間、少し開けたままにしている窓から雨が屋根を叩く音がよく聞こえてくるのだ。「今日も雨だ……」アァ!なんて最悪な目覚め!

 

女子大生には切実なの

 湿気が嫌いないくつかの理由のうち、最も大きなものはやはり自分の髪質だ。端的に言って癖毛だ。細くなく、サラサラでもない。朝必死にブローで形を整えスプレーで固めてきても、湿気という魔物は非情にもワタシの髪のボリュームを上げ、毛先をあちらこちらに遊ばせてしまう。雨が直接髪に触れるか否かはもはや問題ではない。湿度が高いという絶対的事実だけで無力な我が髪の毛はもう逆らえない。

仮にも女子なのだ。髪が長いのだ。癖が出てしまうと見た目がガラリと変わるのだ。こんな変な髪形、誰にも会いたくない!

 

如何に楽しむか

 輝く女子が使いそうなアプリで、雨の日を楽しくするコラムを読んだ。要は、雨の日限定のお洒落コーデを決めてしまえば出かけるのが楽しくなるよね、という話。 確かに最近のレインコートやレインブーツは見た目に凝っていて普段使いのお洒落アイテムと引けをとらない物も多い。雨の日はこの靴とこのコート!って可愛いものを用意しておけば外出する気も起きるかもしれない。マァ納得かな。と、は、い、え。たぶん買わない。

 

 

 云々かんぬん考えていたけれど結局、ワタシの髪質がサラサラ直毛で顔が超絶可愛らしくてスタイルがよかったとしたら、ジメジメがいくら不快でも突然の通り雨に服がべちょべちょになっても、きっと梅雨は嫌いじゃなかったと思う。見た目に自信があれば、周りのコンディションなんてどうでもいいはず。人生が楽しくて仕方ないような、 可愛い女子大生になりたい。(梅雨による鬱)